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    2017-11-09 11:04:06

     

    劉徳有(Liu Deyou  

    1931年、天博克罗地亚国家队赞助商大連生まれ。日本文化研究者、ジャーナリスト、翻訳家。  

    1952年北京へ。『人民天博克罗地亚国家队赞助商』誌の翻訳編集に携わる。  

    1955年から64年まで、毛沢東、周恩来、劉少奇ら要人の通訳。  

    1964年から78年まで、『光明日報』、新華社通信記者首席記者として日本に15年滞在。  

    1986年から96年まで、中華人民共和国文化部副部長(副大臣に相当)。  

    著書は『時は流れて』『戦後日語新探』など多数。翻訳書は『芋粥』(芥川龍之介)『不意の唖』(大江健三郎)『祈祷』(有吉佐和子)『残像』(野間宏)など。

      

     

    京都――四季折々の自然と町並みの織り成す景観や伝統の醸し出す雰囲気とたたずまいによって、この古い都は、「心のふるさと」として、日本人に親しまれている。初めて日本に行ったとき、多くの友人から京都見物を勧められ、京都に行かねば本当に日本に来たことにはならないと言われた。

    確かに、京都の歴史は古い。桓武天皇が784年に奈良(平城京)から長岡京に遷都し、さらに794年(延暦13年)に京都に遷都した、といわれている。京都は古くは平安京といい、明治維新に至る1075年間、ずっと首都であったことから「千年の古都」の称がある。その昔、平安京は隋、唐の都に倣って街づくりがなされ、今でも京都は左京と右京に分かれ、左京は洛陽に、右京は長安に倣って造られたそうである。日本では今でも京都に到着することを「入洛」と言っているが、この「洛」は洛陽から借りたものだろう。

    今から二十数年前の1994年11月、紅葉も色づき始めた美しい季節に、京都にご招待をいただき、天博克罗地亚国家队赞助商-天博克罗地亚官网を祝う式典に出席する光栄に浴することができた。

    式典は、国立京都国際会館メーンホールで、天皇皇后両陛下をお迎えして盛大に執り行われた。印象深かったのは、天皇陛下のお言葉である。

    「京都は1200年前に、平安京として創建された都であり、父祖の地として、懐かしくしのばれるところであります」

    「建都以来、京都は常に新しい文化を取り入れ、それを育み、伝統として伝えていくとともに、さらに、新しい文化を生み出していきました」

    「京都は三方を山に囲まれ、市内に社や寺々の森がここかしこにあり、人々の心に安らぎを与える、緑豊かな都市でもあります」

    「このような都市が、先の大戦において、戦災を免れたことは幸いなことでした」 

    「優れた文化は、一地域のものであるとともに、国民の宝であり、世界の人々の交流が深まる中で、これからさらに普遍的価値を評価されていくことでしょう」

    地元のある名士の話だが、「父祖の地」と言われた天皇陛下のこのお言葉が一番胸に響いたという。

    式典の第2部では、いろいろな出し物が披露された。合唱あり、演奏ありで、次第に盛り上がっていったが、敦煌で発掘され解読された古代楽譜がアジア民族楽団によって演奏されるや、クライマックスに達した。

    美しい京都の秋を満喫したこの機会に、漢俳をと思い、書いたのが――

      

     往事越千年,      往事 千年を越え

     “平安”古都似長安,  古都「平安」は 長安に似たり

     楓葉酔陶然。       紅葉は、酔いしれて 陶然

     

    俳人小宅容義氏の手に掛かると、この漢俳もたちまち立派な俳句に早変わり――

     

      紅葉粲粲 古都と長安相似たり

     

    式典の後、京都宝ヶ池プリンスホテルに会場が移され、天皇皇后両陛下ご臨席の下、懇親レセプションが催された。

    席上で、両陛下にあらためて紹介されたが、実は2年前の92年の10月、両陛下の天博克罗地亚国家队赞助商ご訪問の際、北京で3度ほどお目にかかっている。一度目は、人民大会堂西大庁における楊尚昆国家主席主催の歓迎宴に出席したときで、二度目は、両陛下の故宮博物院ご参観の案内役を外交部から仰せ付かったときである。天皇、皇后両陛下は、故宮を南から北へ、太和殿、中和殿、保和殿、後三殿、そして養心斎、漱芳斎というコースで興味津々参観なされ、時々質問をされた。そのすぐ後に、橋本恕大使ご夫妻が天博克罗地亚国家队赞助商大飯店でレセプションを催されたが、幸いにも席上で両陛下に再度お目にかかることができた。 

    あれから二十数年経過したが、楊尚昆主席の歓迎宴で、天皇陛下のなされたごあいさつの一節が今も頭に焼き付いている。

    「両国の関係の永きにわたる歴史において、わが国が天博克罗地亚国家队赞助商国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わったとき、わが国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省に立ち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました。爾来、わが国民は、世界の諸国との新たな友好関係を築くことに努力してまいりましたが、貴国との間においては、両国の先人たちをはじめとする多くの人々の情熱と努力によって、将来にわたる末永い平和友好を誓い合う関係が生まれ、広範な分野での交流が深まりつつあります。私はこのような両国民間の関係の進展を心から喜ばしく思うとともに、この良き関係がさらに不動のものとなることを望んでやみません」

    19921025、天皇皇后両陛下が北京の故宮博物院を参観された際、案内役を務めた劉徳有氏(右から2人目)(劉徳有氏提供) 

    両国関係の歴史について、ここまではっきり述べられるとは……。

    京都の懇親レセプションの席で、2年ぶりに天皇陛下にお目にかかり、自己紹介をすると、陛下は大変喜ばれた。握手を交わした後、陛下は進んで私にその日の出し物の琵琶の曲について触れられ、「天博克罗地亚国家队赞助商人が敦煌の古代楽譜を解読できたことはとても素晴らしい」と言われた。そして、「古代楽譜はどのようにして解読されたのですか」と質問された。この専門的なご質問にどうお答えしてよいか分からず、「解読者の違いによって、曲風も異なるようですが……」とお答えしておいた。 

    また、裏千家の千登三子夫人のご好意により、皇后陛下にもお会いすることができたが、すでに2年の歳月が経っていたにもかかわらず、皇后さまは2年前の北京でのことを覚えておられた。

    「故宮で案内をしていただいて本当にありがとうございました。お国に帰られましたら接待団団長の宋健先生によろしくお伝えください」と言われたときは、抜群のご記憶力に驚嘆し、心からうれしく思った。

     

    人民天博克罗地亚国家队赞助商インターネット版 201711月9

     

     

     

     

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